About the Author

元国立大学附属中高教員。心を育て、人と人をつなぐ教育プログラムを開発・実践。
2019年に渡米し、アメリカでNozomi Music Schoolを開校。
頭も体も心も、子どものもつ可能性を最大限に高めたい!!

習い事は、子育てにおける永遠のテーマのような気がします。何歳から何を、どこの教室に通って、どれくらいの頻度でやるか。あれがいいこれがいいと色々な噂も入るし、自分の子どもに何がマッチするのか、考えることはたくさん。私が習い事にかける想いと、私の習い事歴史、現在までの子どもの習い事について書いてみます。

習い事が今の私を作った

うちは、決して裕福な家庭ではありませんでしたが、教育に関してだけは、お金を掛けてくれました。

小さい時にやった習い事は、こんなかんじ。

  1. 1
    幼稚園の頃から、ピアノと聴音(絶対音感のトレーニング)
  2. 2
    小学校で、水泳、算盤、書道、公文、塾
  3. 3
    中学で、家庭教師
  4. 4
    高校で、声楽
  5. 5
    大学で、英語や着物、お茶
  6. 6
    社会人になってから、テニスやゴルフ

長くやっていたのは、音楽関係だけで、他は、短期であったり、入れ替わったり、受験対策であったり。

周りの友達と比べると、少し多かったのかな?と感じますが、習い事だらけだったという印象はありません。

親から強制的に習わされていたものもないし、いつでも辞めることはできました。

音楽がメインだったので、運動系のクラブには入れず。それでも根性だけはあるので、大人の地域運動会ではまずまずの順位。

残念ながら身に付かなかった習い事

「リレーの選手に選ばれなかったのは、うちで初めて」と言われた、私の運動音痴ぶり。

父は少林寺拳法黒帯、母は合気道黒帯、姉二人はずば抜けて運動神経が良く、強豪校からの勧誘もあったそうです。

私は、お試しに習った水泳も、大人になってから試したテニスもゴルフも、全く身に付きませんでした。


そして、ずっと字が汚いことがコンプレックスだったけれど、これも、10年以上やったけれど、全くダメ。

一生懸命はやっていたけれど、どうしてもセンスがないのです。

有難いことに、夫がとても字がキレイなので、何かの時には、夫に書いてもらっています。


そして、中学にやっていた塾は、お金をドブに捨てていたようなもの。

友だちと会うのが楽しく、駐輪場で石を投げて民家のガラスを割ったり(謝罪に行き、お金を払いました。)

授業中は友だちと騒いだり、集団授業なのに、先生にあれこれ話しかけたり、本当に迷惑な生徒でした。

さぼってコンビニで過ごしたことも、二、三度ではないかもしれません。

だけど、色々な悪事が社会経験となり、抜群のコミュニケーション能力を得たことは事実です。

(物は言いよう、考えよう。※当時の皆さま、ごめんなさい。)

様々な習い事を経験したことで、子どもには、ある程度の導入くらいは教えられるように。親が一番の先生。

私には、人ができないことができる?

忘れもしない、小学校6年生、友達との下校中のことです。

学校のチャイムか何かを、私が何気なく階名(ドレミ)で歌ったその時、友達が言ったのです。

「何めちゃくちゃ言ってんの。」

別に意地悪でも何でもなく、大阪のツッコミで、変な言葉(ドレミ)をつっこんできたのです。

私は驚き、(全部ちゃんと歌ってるのに、友達は分からないんだ。)ということに衝撃を受けました。


私は、音楽を仕事にしており、学校でも自宅でもたくさんの生徒を教えてきました。

小さい頃からトレーニングすれば、絶対音感を付けることは、そう難しいことではないことを知っています。

だけれど、当時の私は、みんなは分かってなくて、私だけが知ってるのだと、陽気な勘違いをしたのでした。


私は、習い事の醍醐味は、ここだと思っています。

それが仕事に直結しないことのほうが多いし、実際、ピアノを習っている100人中1人も、職業にできる人はいません。

(だから私はすごいんだという話ではなく、私は残念ながら勉強偏差値がひどかっただけ。)

習い事は、人より、ちょっとできるんだという勘違いを山ほどさせて、それで自信を持てることが最高のメリット。

娘は、踊って歌うことが大好き。自分でできることは自分で教えるけれど、それ以外は、いさぎよくプロにお任せ。

どうせやるなら、いい先生に

私が音楽を習っていた先生は、有名音楽大学出身の、大阪支部長をされていた先生。

この先生の指導力は、地元では評判で、山ほど生徒が集まり、朝から晩まで、ずっとレッスンをされていました。

この先生の真の威力を感じたのは、大阪府の公立音楽教員になった後です。

ふと周りを見渡すと、先輩にも後輩にも、この先生の門下生が何人もいたのです。

今では珍しいかもしれないスパルタの先生で、とにかく練習を求め、聴音もきっちりとされていました。

怒られた記憶はあまりありませんが、上手になっていくことが自分でも分かるので、面白かったのでしょう。


多くの生徒さんが集まるということは、多くの生徒さんを引きつける魅力があるということ。

だけれど、それが、必ずしも自分の子どもと相性がいいかは、また別の話です。


その道のプロか、人として信頼できるか、そして、子どもとの相性がいいか。

時間とお金を使って習わせることです。

しっかりと自分の目と、子ども自身の目で見て判断し、あとは信頼して託しましょう。

日本では、音楽を通して教育に燃え、渡米後は、演奏する機会も増えてくるなんて、自分が一番驚き。

わが子の習い事事情

息子たちは、保育園の頃に、書道(硬筆)を始め、小学校になると、進研ゼミとバスケ、水泳を始めました。

娘も、同じように、書道(硬筆)から始め、水泳、渡米後は、体操とコーラス、ミュージカルをやっています。

それに加え、渡米後は、私がピアノや聴音、リコーダーやクラリネットも教え始めました。

あとは、習い事の一環というのか?渡米後は、毎週末日本人学校へ通学しています。


確かに、今、うちの子たちの日常は大忙し。

平日は現地校、土曜は日本人学校で、いつも帰宅は夕方です。

それに加え、息子は、週に何度かバスケ練習に行き、娘は、コーラスや体操、ミュージカルに。

そして、毎日必ず、宿題に加え、それぞれクラリネットやピアノ、聴音などの音楽の練習を続けています。


その中で、平日にお友達と遊ぶ時間もきちんと取り、日曜は完全オフの日としてリフレッシュしています。

この習い事は、私の思惑通り、子どもたちに、ほんの少しの自信を重ねることができていると確信しています。


渡米後はしっかりと日本語の勉強を続け、自宅でもサポートし、バイリンガルであること。

それに加え、人より少し運動が得意だということと、人より少し音楽ができること。

この少しずつの自信が、今の彼らを作っていることは確実です。

ダンスのアクロを習っていた娘。人前に堂々と立って表現できることは、人生で大きな力になるはず。

数十メートルの移動のために毎日仕事を早退

息子がバスケを始めたのは、共働きの私たちにとって、学童後の行き場所を確保することが目的でした。

それでいて、どうせやるなら、結果を出している、本気の習い事をさせたい。

幸運なことに、地元で、日本一に輝いたことがあるミニバスのチームを見つけ、すぐに習わせました。

週6練習がある、かなりガチンコな練習内容でしたが、夫も私も即決でした。

どうせ時間を掛けるなら、本気で取り組んでいる場所で、技術だけでなく精神力も身に付けてほしい。

私たちの想いは、明確でした。


当時小学校1年生だった息子たち、怖がりで新しいところが苦手で、意気地なし。

学校から運動場にあるプレハブの学童に行き、その後体育館に二人で移動することができないというのです。

私は、毎日仕事を早退して、一時間半かけて17時に小学校に行き、数十メートル先の体育館まで手を繋いで連れて行きます。

もう、正直泣きたいし、何でこれだけの距離のために?と情けなく思ったけれど、もうやるしかない。

(その後、6年生のキャプテンが学童に迎えに行ってくれることになり、泣くほど感謝しました。)


練習が始まるも、私と手が離せず、コートの中で、私と手を繋ぎながら練習しているのです。

そんな子、周りを見渡しても、うちの子だけ。

コーチにも、散々言われましたが(とても感謝しています。)、手を離すのに数週間掛かりました。

夏だけの習い事、スキューバダイビング。そこから、SDGsに興味が出たり、釣りにハマったり、人生の楽しみが広がっています。

コミュニケーションツールになったバスケ

それでもバスケを続け、やがて友達や後輩が入ってくると、我が物顔で、あれこれ教え、楽しみ始めました。

そんな折、小学校3年生で渡米が決まりまったのです。

ABCさえ知らない子どもたちが、突然アメリカの小学校に通い始めたのです。

もちろん言葉での会話は全くできないし、中にはアジア人差別をするクラスメイトもいました。

そんな厳しい環境の中、二人が唯一輝けるのが、バスケなどの運動時間でした。

走ってもボール遊びでもクラストップ、そしてもちろんバスケは、全員から注目されるほどうまい。

(と言っても、先述した通り、抜群に能力がある訳ではなく、日本で二年習っていた成果です。)


習い事でもすぐにバスケを始めたけれど、ABCのチームに分けられても、トップに入れる。

これが彼らの自信となり、一目置かれるきっかけとなり、彼らの生活が変わっていきました。

「あいつらスポーツすごいぞ。」と尊敬もされていくようになります。

始めは、チーム内でも、コーチの言っていることが分からず、返事もできていませんでした。

だけれど、そこからチームの信頼を得て、少しずつ彼らの顔に自信が戻ってきました。

小学校1-3年生までお世話になったバスケチーム。彼らの同級生は、6年生の時に、再び全国優勝。

才能と努力

アメリカは、バスケの本場です。

もし渡米することが分かっていたら、私は武道をさせ、日本人として有利なスポーツで狙ったかもしれません。

だけど、こうなった以上、その世界でやるしかないのです。

そして、私たちアジア人は、背も高くないし、欧米人に比べて、圧倒的に華奢で体の線も細い。

しかも、息子たちが、もともと運動能力が高かったとは到底思えません。

だから、できることは、努力だけです。


実は、勉強以上にスポーツが得意な夫。

残念ながらバスケは素人ですが、それでも真剣に、日々時間を掛けて、子どもにバスケを教え続けました。

何年も、毎日1-2時間、仕事が終わってから、双子の息子と3人でバスケットコートに行き、ひたすら基礎練習。

それを続けた結果、中学になると、彼らのレベルは、トップのAチームの中でもエース級になっていたのです。

いいチームメイトにも恵まれ、オレゴン州のチャンピオンを決める大会でも、3位になることができました。

そこまでに、一万本のシュート練習をこなして記録するなど、チーム練習に加え、毎日自主練習も続けたのです。


そして、日本に一時帰国するたび、渡米前に在籍していたミニバスチームにお願いし、練習に参加させてもらいました。

日本に遊びに帰るのに、自分のボールとシューズを持って、平日は毎日バスケ練習。

日本の細やかな指導と動き方は、彼らの技術を高め、多くの知識をもたらすこととなりました。

毎年いくつかのトーナメント戦で優勝し、ステイトチャンピオンシップ(州大会)で戦えるように。

習い事の目的

近い未来、(アメリカの中では)背も小さくて華奢な息子たちは、いつか情熱を冷ますかもしれません。

だけど、それを挫折とは感じないし、もちろん今までが無意味だったとは全く思いません。


困難な状況で、何をすればいいのかを頭で考え、それに向けて最大の努力をしたこと。

そして、努力をすることで得た結果やそこで過ごした仲間は、彼らの得た大きな宝物です。


その世界で生きていけるかどうかは、ずっと後に分かる結果論です。

結果より大事なものが、その過程にあるはず。

  • 子どもに、何を学ばせたいか。
  • 子どもに、どんな世界を見せたいか。
  • 子どもに、どんな風に生きていってほしいか。

明確な思いや言葉にはできなくても、きっとそれぞれ、何かを持っているはず。

親や子どもの選択一つ一つが、子どもの人生にとって、大きな財産になるのです。


人からあれこれ言われることは、全く関係ありません。

自分の子どもを一番理解している親が、自分の子どもを伸ばしたいことを考え、人生を開いていきましょう。

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