社会の一員であるという感覚、とても大切なことだと思います。
誰かが様々なところで、人のために時間を使い、誰かのために働いてくれているから、こうして私たちが日々生活できています。
それを、小さいうちから、見えないところに感謝をもって生活できるかどうか。
全ての基礎は、家庭教育と子育てです。
中1の春に、投げかけていた質問
附属中高勤務時代、中1の40人クラスに、毎年投げかけていた質問がありました。
「お弁当が食べられるのは、誰のおかげ?」
まぁ、「お母さんが作り、お父さんが働いて稼いでくれているから。」という答えが、ワンツーで出ます。
私が伝えたいのは、その先。
その食材を育てている生産者、陳列してくれているスーパー、それを運んでいる運送者、ライフラインを整えてくれている道路交通、電気ガス水道・・・。
挙げればキリがないけれど、40人の生徒が全員違う答えをひねり出そうとしてくれていました。
クラブや行事で、外部に行く時も同じです。
私の場合は、演奏ホールに行く機会が多かったですが、そこで日々メンテナンスしてくれている人、掃除をしてくれている人がいるから、こうして利用できるのだと話していました。
附属で勤めていると、そういった感覚は、特別すごいことではなく、当たり前と捉えられることも多かったです。
家庭教育がしっかりされているのだなぁと、改めて感じるところでもありました。
社会ルールを守る
私の義兄は、大阪で人気のある、受験が必要な小学校の校長でした。
そして、その妻でもある私の姉が、その小学校受験の日、近くで外食をしていた時のことです。
その小学校受験を終えた親子が、姉の隣のテーブルに座り、親子で話し始めたそうです。
受験への労いの話の後、この親子が、車で来ていることが分かる会話だったとのこと。
その受験要綱には、交通機関を使って来校するように書かれていました。
もちろん、名前を調べるわけでもないし、バレなければ、それが受験に影響することもありません。
ただ一言、「落ちるやろうな。」と言っていました。
もちろん、結果どうなったかなんて知りません。
ただ、受かっても落ちても、受験の日に子どもが学んだことは、「バレなければいい。」ということです。
恐らく、(多くの子どもが)塾に行って長らく頑張ってきたであろうに、「受かればいい」とは、寂しい話です。
双子育児は、周りの人を巻き込んで
有難いことに、初めての出産は双子でした。
里帰りもせず、当然親に助けてもらう日もありましたが、基本は夫と二人で協力して育ててきました。
しばらく車なしで生活していたので、お出掛けする時には、主に電車かバス。
なぜなら、双子ベビーカーはタクシーに入らないんです。涙。
バスの運転手さんが、本当にいつも親切にしてくださり、乗り降りを手伝ってくれていました。
いつものように、双子を乗せたまま、ベビーカーごとバスに乗せようとしたとき、悲劇は起きました。
何と、上から引き上げようとしてくれていたその瞬間、運転手さんがぎっくり腰になってしまったのです。
痛みのあまり、歩くこともままならないまま、運転席に戻り、痛みで声を上げながら、バスは出発しました。
もう私は、気が気でなく、平謝り。
すぐに夫に電話をして、とにかく謝罪とお礼と、降りる前に、医療費替わりの現金を渡そうと決めました。
それは受け取ってくださりませんでしたが、バスを降りてすぐ、私はバス会社に電話しました。
普段から、とても快く手伝ってくれていたこと、現金を受け取られなかったこと、とにかく感謝していること。
しばらく、勤務することも難しいかもしれないけれど、それは私の責任だということ。
そしてしばらく見かけなかった運転手さんに再び会えたとき、心底ほっとしたものです。
そして「電話掛けてくれたんやね、ありがとう。」と言って、笑顔を見せてくださいました。
ちょっとのトイレも人頼み
外での買い物も、一苦労。
「ちょっとあそこまで」も、双子ベビーカーだと、持ち上げることもできず、大回りするしかありません。
自分のトイレだって、パッと行けるわけではありません。
そこで、トイレのすぐ近くに立っておられた百貨店の店員さんに、一言。
「そこのトイレに行ってくるので、すみませんが見ていてください。」
とお願いして、2,3分見ていてもらっていたこともありました。
親やママ友、ご近所さんはもちろん、様々な人の手があって、子育てができているのです。
これらは、子どもが少し大きくなってから、何度も聞かせました。
自分が大きくなったのは、名前も知らない、会ったこともない、数えきれないほどの人の助けがあったから。
だから、自分も、名前も知らない、見えない人のために、自分ができることを、精一杯すること。
人は、誰しも一人では成長できず、互いに助け合って生活できているのだということに気付くこと。
何に対しても、まずは「ありがたいね。感謝だね。」と感じられること。
そこに関わってくれる人の想いを感じ取ることって、とてもとても大切なこと。
「迷惑になる」ことで恐れる必要はない
私がマンションに住んでいた頃、友達に突然、よくこんなメールを送っていました。
「醤油ちょっとちょうだいー!」「卵2個ちょうだいー!」などなど。
ちょっと頑張って、そのためにスーパーやコンビニに走れば、買えないことはないです。
だけれど、子どももいるし、色々面倒だし、今ほしいんです!(こういうことありますよね?)
そして、家にある、物々交換になるような何かを持って、走ってもらいに行っていました。
今でもはっきり覚えています。
物々交換用に、アルミホイルを持って行った時、「これ今ほしかった!なんで分かったん?」と言われました。
何か知らないけれど、何だかとっても幸せ。「やった!!」と。
こうすることで、今度は、その友人たちが、「OOあったらお願い!」と言ってきてくれます。
互いに、困った時に声を掛け合える関係を作るには、まずは自分からちょっと厚かましく。
今でも、日本に一時帰国をすると、滞在先はホテルですが、お友達のおうちによくお邪魔します。
ごはんに招いてくれるのですが、私が持参するのが、うちの家族の洗濯物。
「OO時に行くから、その時洗濯あけといて!そのまま干して、帰りに回収していくわ!」と事前に伝えます。
夫は、恥ずかしくないの?と呆れていますが、それも私流。
コインランドリーに行けばいいのですが、とにかく忙しい日本滞在。
そこまで持っていって、また改めて回収してーは、結構な手間だし、何より時間がもったいない。
お友達とおしゃべりして、ごはんを頂いて、その間に洗濯まで終わるなんて、なんて素敵なんでしょう。
互いに助け合える関係性を
多くの日本人は、まじめできれい好き、マナーも世界的に見て素晴らしい国です。
そして、「きちんとする」「迷惑を掛けない」ことが最重要になってしまいることも多いです。
「迷惑になる」かもしれないと考えるあまり、本当に大切なことが見えなくなっては本末転倒。
人にお願いすることが迷惑に思われてしまうかも?と、一人で抱え込みすぎない。
何て思われるか心配だからーと、全部自分でやろうとしすぎない。
迷惑を掛けないことが大切なのではなく、互いに助け合える関係をつくることが大切なのです。
ちょっと厚かましいかな?と思っても、「自分だったら?」を常に逆の立場で考えてみる。
人は本来、頼られたら嬉しいものです。
自分が誰かの力になれれば、それはとっても嬉しいはず。
もちろん、相手の状況も様々なので、自分が感じること=相手が喜ぶことではないですが、
迷惑を掛けることを恐れるあまり、人と人の関係が希薄になることは残念。
核家族となり、近所づきあいがなくなってきている今だからこそ、自分から関係を作っていきたいものです。
社会の一員である意識をもつために
自分のことが自分でできるようになってきたら、家族を助けてくれるようになります。
「痛!」とどこかをぶつけたら、娘は、いつでも氷をもって駆けつけてくれます。
兄弟、親、家族のために。
子どもは、誰しも自分が誰かの力になれるよう、全力で動いてくれます。
それに感謝し、「ありがとう」から、やがて「おかげさまで」の心が生まれるのです。
そして、忘れてならないのが、夫婦でも同じ。
子どもが親にあれこれしてくれるのと同じように、夫婦でもそうありたいものです。
そういう姿を見て、子どもは、「助け合う」ということを、見て学びます。
まずは、家族の中で助け合い、お友達を助け、周りの人へ意識が広がっていきます。
親は、子どもの世話を一方的にしているようで、実は子どもからもらっているもののほうが、はるかに大きい。
子どもの存在自体が、私たちを生かせてくれているのです。
あなたがしてくれたから、助かった
あなたがこう言ってくれたから、幸せ
あなたの存在が、私を生かしてくれる
やってくれたことへの感謝はもちろん、あなたがいるから、私がいられるのです。